「思いやりのある企業」「人間らしい職場」
「フジテレビの10時間23分」に続く、「週刊文春」の記事訂正が波紋を生んでいる。
この騒動は、しばらく収まりそうにない。
Facebookの元最高執行責任者である、シェリル・ サンドバーグは、「従業員が何らかの苦難に遭ったときに、 企業側はどう対処すべきか?」いう問いに、具体的な対応例を挙げたうえで、従業員が「(自分が) 思いやりのある企業の一員であると感じること」 が大切だと述べている。「人間らしい」 職場で働いていることに誇りを感じるような対応が必要である、と。(「 人生の悲劇から立ち直る力」/ハーバード・ビジネス・ レビュー編集部編『レジリエンス』より)
スポンサー企業や他メディアがフジテレビに疑問符をつけるのであれば、それは、「思いやりのある企業」「人間らしい職場」 を、フジテレビが被害者である元従業員に感じさせられなかったことだ。
被害者に寄り添い、最善の対応を考え続けたと経営層は語ってはいるものの、相手側はそう受け止めなかった。むしろ、 加害者に寄り添っているのでは? という不信感を与えてしまったにちがいない。
フジテレビが、一昨日(1月27日) の会見で明確にすべきだったことは、公言が可能であれば、示談が成立した日時とともに、「 示談が成立する過程で、被害者の雇用主として、加害者と被害者に、だれが、いつ、どのように向き合ったのか?」だったのではないか。
別従業員(プロデューサー)の介入云々は、第三者委員会の調査結果を待つことになるが、 密室での当事者間の出来事は藪の中だ。いや、示談が成立しているので、表沙汰になる必要はない。
2023年6月当時のフジテレビの、「組織」と「個」の関わり方が炙り出され、それを巷の企業が反面教師にしていくこと。もはや、この騒動の価値はそこにしかないだろう。

ジョン・ランボーが教えてくれる「個」の闘いの難しさ
いま、世間を騒がせている、 某放送局と元アナウンサーと有名タレントのトラブルの件―― 憶測で是非を問うのはナンセンスですが、週刊誌報道の中で、それが真実であろうと虚偽であろうと、気に留まることがありました。
組織に身を置く者が、組織(の管理職)に被害の報告をしたのに、適切な対応がなされないというケース。
信頼している組織にないがしろにされた――そう感じたとき、人は怒り、絶望し、虚無感に囚われます。
映画「ランボー/怒りの脱出」で、戦友を救い出した主人公( ジョン・ランボー=シルベスター・スタローン)が敵地に置き去りにされた、あのシーン。
「居場所の否定」が、集団と個の軋轢につながっていく……
人的資本経営が広く説かれ、企業・団体が、従業員を外敵から守る姿勢がいっそう重視される時代になりました。パーソル総合研究所が、2024-2025人事トレンドワードに選んだ「カスハラ対策」も、その一例です。
個の側からすれば、集団(組織)の、誰に、どう相談するかが問題解決の鍵になります。いつの時代も、どんな組織でも、決定権を持たない風見鶏は保身に走り、コトナカレ主義を貫く。相談がヤブヘビになることもあるでしょう。
自助ができずに共助に頼ったのに、共助がなされなければ、公助を求めるしかない。この場合の公助は、法に基づく制裁を加害者に課すことですが、加害者と被害者が示談済みなら、もう、公助はあり得ません。 ただし、被害者が加害者ではなく、適切な対応をとらなかった組織を訴えれば、まだ、何らかの公助はあり得るでしょう。
週刊誌報道に誤りがないなら、今回の騒動の一因は、組織による共助がなく、当事者間の示談で公助を閉ざしたから、とも考えられます。
映画「ランボー」(原題「First Blood」)で、大佐(サミュエル・トラウトマン= リチャード・クレンナ)は、ジョン・ランボーが暴れる前に手を差しのべるべきでした。いや、 ワシントン州の田舎町の警察署長(ウィルフレッド・ティーズル= ブライアン・デネヒー)が、偏見を持たずに、来訪者であるジョン・ランボーの話をしっかり聞くべきでした。
映画「ランボー」の原作は、ディヴィッド・マレルの小説「First blood」。First blood(ファースト・ブラッド)は、ボクシングの試合での先制パンチのこと。つまり、「どちらが先に手を出したか」のメタファーになっています。
しかし、密室下のボクシングでは、真相はヤブの中となり、語り手によって、First Bloodのジャッジは「可変」となってしまいます。
「First blood」の邦題は「たった一人の軍隊」(早川書房刊)―― この題名も巧みです。一人だけの軍隊など存在しないのだから。
集団(組織)が、個の居場所を否定してはならない。
この、「可変」ではない、「不変」の事実を大切にしたいです。

個と集団の間を蛇行する「ほんのささやかなこと」
アイルランドの作家、クレア・キーガンの中篇小説「 ほんのささやかなこと」は、 氷を手の甲に強く押し付けられたときの「熱さ」に似ている。「冷たい」ではなく、「熱い」という感覚。 その熱い痛みは冷たい水になって融けていく。読者の中に沁み入るように。
「けど、うちの娘たちもああいうことになったら?」 ファーロングは言った。
「だから、さっきからそれを言ってるの!」 アイリーンはまた声を高くした。
――クレア・キーガン著/鴻巣友季子訳「ほんのささやかなこと」 より
物語中盤(第四章)に描かれた、主人公(ファーロング)と、 その妻(アイリーン)の小さな諍いが印象的だ。物語の題材は、かつて、アイルランドにあった「マグダレン洗濯所」。
社会の不適切な出来事を、見て見ぬふりする個人。グループシンク(集団浅慮)が、大きな集団のイデオロギーと化して、なす術をなくす生活者。 どこの地でも、いつの時代でも、個と集団の間には、深くて長い、目に見えない川が蛇行する。
自分のことだけで余裕がない、身の周りの幸せで十分……ふと、さだまさしさんの名曲「前夜(桃花鳥)」(1982年、 アルバム「夢の轍」収録)を思い出した。「前夜(桃花鳥)」 の主人公(歌詞の語り手)は、 変わりゆく日本を憂いてつぶやく。「わかってる、 そんなことは」と。そして、テレビで流れるニュースが「小さな出来事」であり、それよりも、自分たち夫婦に大切なのは明日の夕食の献立であり、狭い部屋の平和を保つことで手いっぱいなのだと告白する。
この、さだまさしさんの「前夜(桃花鳥)」は、「空缶と白鷺」( 1984年、アルバム「Glass Age 」収録)というアンサーソングを経て、 NHK紅白歌合戦でも披露された「遥かなるクリスマス」( 2004年、アルバム「恋文」収録)に昇華していくが、そのことはまた別の機会に触れたい。
クレア・キーガンが「Small Things Like These」(ほんのささやかなこと)として紡いだ物語は、 やがて、元首の謝罪になるまでの歴史的な問題に発展し、表向きの解決までに30年あまりの月日を要したという。(「 ほんのささやかなこと」訳者あとがきより)
同じく、「マグダレン洗濯所」を題材にした映画「 あなたを抱きしめる日まで」や「マグダレンの祈り」を観れば、 アイルランドのこの史実が鋭利な氷となって人々の胸を刺したことがわかる。そして、すでに、「ほんのささやかなこと」も映画化され、来年(2025年)には日本でも公開される。予告編の映像を観たが、主人公の内省を抉(えぐ) るような寒色系のトーンだった。
はたして、集団の不正義に対して、個人の内省が行動に変わるのはどんなときだろう。
溶けた氷が一滴の水になり、大河になるには、想像を絶する時間が必要だ。ささやかなことが大きなうねりに変わるには、個の力が集団の力にならなければならない。
新潟県トキ保護募金推進員会の報告によれば、さだまさしさんが「 前夜(桃花鳥)」で絶滅を憂いたトキは、 人の手による繁殖を経て、2023年末の時点で、 推定532羽が野生下で生息しているという。 前夜から41年の歳月が流れた。
ローレンス・ブロックのツンデレ
米国の作家、ローレンス・ブロックの短篇作品の引力に惹かれて、 文庫本を手に取ることが多い。
早川書房のローレンス・ブロック傑作集1『 おかしなことを聞くね』は、ミステリー系の短篇小説ファンなら、 誰もが知る、まさに「傑作」のひとつだろう。
なかでも、表題作の『おかしなことを聞くね』は、わずか8ページ の、当短篇集でいちばんの掌篇だが、ストーリーも、オチも、 登場人物の設定も…… 作品をかたちづくるすべての要素が研ぎ澄まされていて、 ブロックの力量を存分に感じさせてくれる。
オチは終盤で予測はできるものの、 ストーリーの回収と最後の一文が絶妙なのだ。
そう、ブロックの短篇作品の魅力は、最後の一文(二文)にある。 もちろん、訳者・ 田口俊樹さんの日本語選びのセンスに依るところも大きいが。
ローレンス・ブロック傑作集1『おかしなことを聞くね』 の中から、そのいくつかを拾い上げてみよう。
―――
が、そのときにはすでに肉切り用のナイフが鞘から抜かれていた。 『食いついた魚』
おれは三二口径をポケットに入れ、 道の向こうの軽食堂に小走りになって向かった。 『我々は強盗である』
「いや、ひとりごとだ」と彼は言った。「たいしたことじゃない」 『アッカーマン狩り』
後ろは一度もふり返らなかった。そう、ただの一度も。 『成功報酬』
―――
読者は、最後の一文に続くシーンを想像せざるを得ない。 その多くが、悲劇(バッドエンド)に彩られたものだが、「 あとは読者の脳内再生にお任せ」といったストーリーテラー(= ブロック)の気遣いが心地よい。ツンデレといっていい、 含み笑いのある突き放し方は、たとえば、ジェフリー・ アーチャーやスティーブン・キングの短篇作品とは異なる、 ブロックならではのものだ。
ふと、言葉を辿れば、BLOCK(ブロック)には、「塊( かたまり)」「一区域」「防御する。妨害する」 といったさまざまな意味がある。 多様なストーリーに満ちたローレンス・ブロックの文学は、 読者の想像力を決して妨害することなく、どれもが、やわらかで、 しなやかな硬度を保っている。

「しょせん他人事」というもどかしさ
アイルランドの作家クレア・キーガンの小説集「青い野を歩く」 を読了した。2009年の刊行だ。いまは亡き、 岩本正恵さんの翻訳で、クレア・ キーガンの研ぎ澄まされた表現が無駄のない日本語に置き換えられている。原文に触れていないので、 はたしてこの言い方が正しさは定かではないけど。
「別れの贈り物」「青い野を歩く」「波打ち際で」 の3編がことさら素晴らしい。
主人公たちは誰もが寡黙だ。寡黙であることには理由がある。過去の出来事に支配された胸の内を、言葉に置き換える術がないから。多くの読者は、主人公の内省に登場人物の誰かが気づき、耳を傾けてほしいと思うにちがいない。
クレア・キーガンの作品の魅力は、その「もどかしさ」にある。
人は、どんなに相手に寄り添っても、他者の知覚を得ることはできない。VRなどのIT技術を駆使して、痛さを体感することはできても、それは創造からの想像でしかない。
相手を完全に知り得ないことのもどかしさ、分かり得ない人たちを第三者として観察することのもどかしさーー前者は「(自分事にしたいけど)しょせん他人事ですから」、後者は 「志村〜、うしろ!うしろ!」。
小説集の巻頭に収められた「別れの贈り物」は、 二人称小説になっている。ジェイ・マキナニーの「ブライト・ ライツ、ビッグ・シティ」のように、物語の語り手が主人公に寄り添っていくスタイルだが、クレア・ キーガンの寄り添い方は、あくまでも、COOLで、 LIGHTで、BLANDで、ストーリー(= 主人公が抱える過去)の重たさとのバランスが絶妙だ。
「異」で世界を変えた、二人のジョン
オーストラリア出身の名監督ピーター・ウィアーの作品論を卒業論文にしようとしたが、担当教員が見つからずに断念した。はるか昔、 1990年のことだ。テーマは「エトランゼが生むコンフリクト」だった。
「刑事ジョン・ブック 目撃者」の主人公(ハリソン・フォード)、「いまを生きる」 の教師ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)、二人とも固定化した価値観を持つ世界にエトランゼならではの風を吹き込んで、 皆のもとを去っていく。
「エトランゼが生むコンフリクト」はピーター・ ウィアー作品のみならず、映画のプロットの定番だ。古くは「シェーン」、アカデミー賞作品では「グリーンブック」 など、枚挙に暇がない。
ふと振り返れば、ダイバーシティ&インクルージョンという概念とともに、「異」 という言葉が、日本でも好意的に捉えられるようになって久しい。
違和感=異和感と表記することなどもあって、「異」というコトバには、かつてはどこかネガティブなイメージがあった。異世界、異星人、異文化、異人、異国…ネガティブとまではいかなくても、 ミステリアスさからくる警戒心を誰もが拭いきれなかった。
ところが、いまや、「異」が生むコンクリフトは、「宇宙大戦争」 「インデペンデンス・デイ」の中くらいか。
いや、違う。
X(旧Twitter)のポストは「異」を嫌う傾向がやたら強い。人は匿名になると、「同」を好み、コンフリクトを厭わなくなるのだろうか。
ジョン・ブックもジョン・キーティングも、決して匿名ではなく、生身生声で価値観の異なる他者に対峙した。ときに、ひるみ、ときに、めげながら。
匿名や覆面の世界でも、「異」が認められる世界になればいい。アカルイミライは異口異音の先にある。
映画「The Son/息子」の父親と、「ジョーカー」アーサーの、それぞれのマイライフ
映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」で、アーサーがリー( レディーガガ)を想って歌う「For Once In My Life」は印象的だったが、それ以上に、筆者にはビリー・ ジョエルの「My Life」がカーラジオから流れるシーンが胸に刺さった。
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I don't care〜〜〜(英語歌詞略),this is my life
お前さんがなんて言おうが知ったこっちゃない、 これがオレの生き方さ(筆者訳)
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my lifeと言えば、フロリアン・ゼレール(フランスの劇作家) 監督の映画「The Son/息子」で、ヒュー・ジャックマン演じる父親ピーターが「 マイライフ!」と怒鳴って、息子のニコラス(ゼン・マクグラス)を突き飛ばすシーンが、あまりにも切なく哀しい。
不惑を過ぎたオジサンが学生時代の親友や仕事の同僚に、「これがオレの生き方さ」とツッパることはできても、 悩みを抱えた自分の息子や娘に対して同じセリフを吐くのはなかなか難しいだろう。なぜなら、多くの親にとって、息子や娘の存在が 「マイライフ」のかなりの部分をかたちづくっているから。ピーターは妻と離婚していて、息子が心を病んだ一因は、父親の「マイライフ」に不在だったから、と物語は匂わせている。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」のクライマックスで、アーサーは「マイライフ」を貫くために、「カリスマ行きのクルマ」から飛び降りて、必死の思いで逃走する。そして、 病院に再び収容されたアーサーは、「これがオレの生き方さ」 とつぶやいたにちがいない。リー(レディー・ガガ) が産むはずの息子(娘)がいつか「マイライフ」 を彩ることを夢見ながら。