アイルランドの作家、クレア・キーガンの中篇小説「 ほんのささやかなこと」は、 氷を手の甲に強く押し付けられたときの「熱さ」に似ている。「冷たい」ではなく、「熱い」という感覚。 その熱い痛みは冷たい水になって融けていく。読者の中に沁み入るように。
「けど、うちの娘たちもああいうことになったら?」 ファーロングは言った。
「だから、さっきからそれを言ってるの!」 アイリーンはまた声を高くした。
――クレア・キーガン著/鴻巣友季子訳「ほんのささやかなこと」 より
物語中盤(第四章)に描かれた、主人公(ファーロング)と、 その妻(アイリーン)の小さな諍いが印象的だ。物語の題材は、かつて、アイルランドにあった「マグダレン洗濯所」。
社会の不適切な出来事を、見て見ぬふりする個人。グループシンク(集団浅慮)が、大きな集団のイデオロギーと化して、なす術をなくす生活者。 どこの地でも、いつの時代でも、個と集団の間には、深くて長い、目に見えない川が蛇行する。
自分のことだけで余裕がない、身の周りの幸せで十分……ふと、さだまさしさんの名曲「前夜(桃花鳥)」(1982年、 アルバム「夢の轍」収録)を思い出した。「前夜(桃花鳥)」 の主人公(歌詞の語り手)は、 変わりゆく日本を憂いてつぶやく。「わかってる、 そんなことは」と。そして、テレビで流れるニュースが「小さな出来事」であり、それよりも、自分たち夫婦に大切なのは明日の夕食の献立であり、狭い部屋の平和を保つことで手いっぱいなのだと告白する。
この、さだまさしさんの「前夜(桃花鳥)」は、「空缶と白鷺」( 1984年、アルバム「Glass Age 」収録)というアンサーソングを経て、 NHK紅白歌合戦でも披露された「遥かなるクリスマス」( 2004年、アルバム「恋文」収録)に昇華していくが、そのことはまた別の機会に触れたい。
クレア・キーガンが「Small Things Like These」(ほんのささやかなこと)として紡いだ物語は、 やがて、元首の謝罪になるまでの歴史的な問題に発展し、表向きの解決までに30年あまりの月日を要したという。(「 ほんのささやかなこと」訳者あとがきより)
同じく、「マグダレン洗濯所」を題材にした映画「 あなたを抱きしめる日まで」や「マグダレンの祈り」を観れば、 アイルランドのこの史実が鋭利な氷となって人々の胸を刺したことがわかる。そして、すでに、「ほんのささやかなこと」も映画化され、来年(2025年)には日本でも公開される。予告編の映像を観たが、主人公の内省を抉(えぐ) るような寒色系のトーンだった。
はたして、集団の不正義に対して、個人の内省が行動に変わるのはどんなときだろう。
溶けた氷が一滴の水になり、大河になるには、想像を絶する時間が必要だ。ささやかなことが大きなうねりに変わるには、個の力が集団の力にならなければならない。
新潟県トキ保護募金推進員会の報告によれば、さだまさしさんが「 前夜(桃花鳥)」で絶滅を憂いたトキは、 人の手による繁殖を経て、2023年末の時点で、 推定532羽が野生下で生息しているという。 前夜から41年の歳月が流れた。